2016.12.30 Friday
す追悼 朝本浩文氏を偲ぶ
朝本浩文君が亡くなって、丁度一月になります。
クリスマスも終わり、街は、年の瀬の忙しさに追われ、忙しない空気に包まれていましたが、流石に今日は、東京は静かになって来ましたね。
そして、僕も何だかんだと、忙しさが続き、ブログも書けない日々が続いていましたが、今日はどうしても書きたい事があり、久しぶりにブログをアップさせて頂きます。
2016年も、あと2日。
今年は、僕にとって色々ありましたが、特に感じたのは、人の死がやけに重くのしかかって来た事でしたね。
この二、三年、本当に身近な人の死が続いています。
そんな連鎖に繋がる様に、僕のカミさんも死と隣り合わせの人生を送る様になり、その死の意味は更に増していき、ある意味僕の生活のベーシックな部分を握るファクターとさえ成ってしまいました。
まあ、そんな死にいつも明るく接しているカミさんには、どうしても頭が上がらないんですがね……。
やっぱり女は強いです。
生きる気満々デス(笑)!!
ですからこそ、死と言う言葉もすんなり日常と言う言葉になって行ったんだとも思えます。
そんな日常と共に僕が子供の頃から憧れたロックスター達が、次々に死んで行く……。
スターの死、これは、やっぱり、非日常の部類なんでしょうね……。
でも、 これも、やっぱり今年の悲しき出来事の1つでしたね。
日常も非日常も、全てが死を提示してくる。
単に歳をとっただけ、時の流れがそうさせてるんだと、其れが当たり前の事として捉える見方もあるでしょうが、そんな当たり前の事でも、やはりその寂しさは、測り知れぬものがありました。
そして、その死の曳航に連なる流れは、確実に僕も引きづられて行くのを感じます。
そんな日常を送る中、今年も家族三人揃って普通にクリスマスが出来ました。
普通……、良い言葉です。
いつ迄続くか分からないこの家族三人の繋がりを噛みしめ、今年のワインも神の雫の如く、心を潤す物と成ってくれました。
丁度2年前、カミさんの死を覚悟して迎えようとしていたクリスマス、しかし、奇跡的に薬が効き、延命状態に入り、病院のベッドの上ででしたが、生を持つ者として迎える事が出来たクリスマス、其れから2年間、退院しての家族三人の暮らしに戻った僕達家族の前には、幾つか危ないハードルが立ち塞がる事もありましたが、なんとか其れを超えて来れました、そして、その度に、神への感謝を抱き、家族の絆に感謝し続ける事が出来、正に我が家族は、幸運だったとしか言う言葉が見つかりません。
特に殆ど同じ時期に、僕のカミさんと同じ様に死の淵に追いやられ、しかしそのまま意識を失い、2年の月日をベッドの上で過ごし、終にこちらに戻る事無く逝ってしまった彼の事を思うと、その死に対する思いは、つら過ぎるモノがあります。
方や根治する事は叶わぬ迄も、未だ生を享受し続けている、そして一方彼は死んでしまった……。
そんな彼の死が過ぎて、丁度一月が過ぎました。
前置きが、長く成りましたが、暫くぶりのブログは、そんな彼への話しをさせて貰います。
彼の名は朝本浩文、30年以上前に、AUTO-MODのメンバーだった男です。
そんな朝本浩文氏が、亡くなられたのは一月前、11月30日、14時55分の事でした。
丁度彼の53回目の誕生日を迎えたばかりの事でした。
そして、其れは僕とパーソンズの渡邊貢の二人が最後のお別れに行った約二週間後の事でした。 ネットニュースなどでご存知の方も多いと思われますが、朝本君は、2014年9月11日夜、自宅近くを自転車で走行中に転倒、頭部を強打し、以来意識不明の状態が続いていることが報じられていました。
タクシーが関わっている疑いもあったのですが、確かな証拠がなく、自らの転倒とされ、2年2カ月の闘いの後の無念の永眠でありました。
そした、彼は歴代AUTO-MODメンバーの中で、一番最初に天国の階段を上って行った男と成りました。
朝本浩文、彼と最初に会ったのは、AUTO-MODから布袋君と高橋まこっちゃんが抜け、メジャーデビューアルバム『デストピア』が発売されようとする1985年を迎える前年の晩秋の事だったと記憶しています。
一定期間の凝縮した活動の後、華々しく散って見せると言う花火の様なコンセプトの元、AUTO-MODは1983年12月にその第一歩としてシリーズギグ「時の葬列・終末の予感」を開始しました。
おこのシリーズギグの13回目に、解散と言う絵図を描き、正に、インディーズから、メジャーへ、ライブハウスから、ホールクラスへと、移行しょうとしている時でした。
残された僕と、現パーソンズのベーシスト渡邊貢、又後に矢沢永吉のステージを務め、ブランキージェットシティのレコーディングにも関わった、サックスの河野利昭の三人で、新しいメンバーを探す中で、ドラムは浜一輝に、ギターは、後のレベッカに参加、その後、氷室京介、藤井フミヤなどのバックで知られる事ともなる友森昭一に決定、新たなるスタートを切る事と成りました。
しかし、やはりサウンド的に布袋君の抜けた穴は大きく、その穴を埋める戦力強化要員として、キーボードを入れる事となり、白羽の矢がたったのが、朝本君でした。
確か、ドラマーのハマちゃんが連れて来たんだったな……。
九州出身ってんで、明太ビート系のバリバリパンクな子が来るのかと思ったら、やって来たのは、おっとりとした風貌の、お洒落な田舎者って感じの慶応ボーイでした(笑)。
それが朝本君との初めての出会いでした。
そんなキーボード朝本浩文と、ギター友森昭一、ドラム浜一輝、、サックス河野利昭、ベース渡邊貢、そして僕のジュネの五人で第1期AUTO-MODの最後の航海を共にする仲間が決まって行きました。 そしてこの五人で、ファイナルの解散ライブに向かい、最後のAUTO-MODの旅を初めました。
この五人で、北海道から九州迄色々回りました。
この時は、AUTO-MODは、人気の絶頂期でしたね……(笑)!!
九州に行った時は、朝本のお母さんに、息子の事を宜しく頼むと託されましたよ(笑)。
布袋君と離れたAUTO-MODは、よりマニアックな方向に走りながら、メジャーに於いて二枚目のアルバム『イースタニア』を制作。
その頃のAUTO-MODは、エスニック色を強め、かなり実験的音作りをしていました。
このメジャー二枚目のアルバムとなる『イースタニア』は、実は、名前こそ出して居ませんでしたが、EP-4の佐藤薫氏がプロデュースに参加してくれていて、薫さんのつてで、天才キーボードプレイヤーの川島バナナ氏や、キリング・タイムのタブラ奏者Ma*To氏も参加。
その技術力の高さに、インディーズミュージシャンであった僕達は、目を見張ったものでした。
朝本君も川島バナナ氏のその天才的センスを目の当たりにし、かなりの衝撃を受けていたと思います。
後々朝本君が、ワールドミュージック的活動をしていたと聞いて、あながち、彼にとってのAUTO-MODと言うキャリアも、あの時だけの物じゃなかったんだな、何て思ったりもしたものでした。
そんな彼は、AUTO-MOD解散後は、サポートメンバーとしてTHE MODS、THE ROOSTERS、GO-BANG'S等にも関わるなど、多彩な活動を展開。
1986年又バンドメンバーとしては、日本のダブミュージックバンドとして、世界的に知られたMUTE BEAT"にキーボーディストとして参加。
あのMUTE BEATに朝本が入ったと聞いた時は、本当にあいつで大丈夫なのかと思ったりもしましたが、彼はその後その活動の中で成長して、日本のミュージックシーンに名を残すアーティストと成って行きました。
AUTO-MOD出身者って、なんか、みんな凄いんですよ(笑)。
その後、朝本君は、MUTE BEATを脱退、Ram Jam Worldを結成。
又UAを始めとして数々のアーティストの作品を手掛け、プロデューサーとしての地位も確立。
マジその活躍は、凄いものでした。 UAのプロデュースと聞いた時は、マジスゲ〜と、声を上げてしまいましたよ(笑)!!
そういや、そんな朝本君のAUTO-MOD時代のやっちまったエピソードも、しっかりありましたね……(笑)。
後楽園ホールでのAUTO-MODの解散コンサートを目前に控えた大事なリハーサルをすっぽかしやがったんですよ(笑)。
その頃のAUTO-MODのメンバーは、僕の意思を理解し、僕の楽曲を演奏出来る技術とセンスを持つミュージシャンとによる、僕のワークショップ集団と成って居て、それさえ出来れば、後はかなり自由な行動が約束されてました。
ですので、AUTO-MODのメンバーが他のバンドやミュージシャンと仕事をする事も、むしろ積極的に許可していました。
勿論AUTO-MODの活動に支障をきたさないと言うのが、大前提ですけどね。
その頃のAUTO-MODは、ロックシーンでは、知名度もかなりの物に成っていたので、AUTO-MODのメンバーと言えば、結構仕事が入って来ていたようです(笑)。
そんな朝本君がAUTO-MODの解散コンサートを目前ととした頃、モッズのサポートをする事に成ったのも、そんなAUTO-MODの知名度と、解放的バンドの在り方が在ったからの事でした。
しかし、解散コンサートを1つの目標とし、その為に全精力を注いで居たAUTO-MODにとって、解散が近づいた一月位前から、殆どのメンバーのテンションは、解散コンサートに向かって居ました。
まあ、AUTO-MODにとっては、2年越しの大プロジェクトでしたからね。
ただ一人、モッズの仕事まする様になった、朝本君を除いてでしたが……(笑)。
何せ、福岡出身の朝本君にとっては、モッズは神様も同然、その神様から仕事が来たとなると、若い朝本君が、浮かれ過ぎても、当然の事だったのでしよう(笑)。
度々リハーサルに穴を開ける様になり、彼と他のメンバーとの距離も段々離れ気味に成って来て、僕としては、先輩であるモッズの森山さんの為ならと、黙認し、却って擁護していたんですが、流石に解散一週間前のリハーサルをすっぽかしだしたのには切れて、朝本を呼び出し、森山さんに話しをすると詰め寄った事も有りました。
結局朝本のリハーサルは必ずでると言う言葉と、謝罪で許してやったんですが、確か、その後もう一度すっぽかしたんじゃなかったかな……(苦笑)。
しかし、これは、僕よりマネージャーであり、バンドのプロデューサーでもあった、宮部知彦氏が、激怒し、解散コンサートのライブレコーディングから、朝本の音を全て消すなんて無茶苦茶な事を言い出し、なだめるのが大変だったなんて、後日談があったんですが、今やこの裏話知ってる奴は、誰も居なくなりました……(笑)。
とは言うもの、なんだかんだで、バタバタでしたが、後楽園ホール超満員、ソールドアウトで、有終の美を飾ったAUTO-MODでありました。
僕達のパンク ニューウェーヴが終わった瞬間でした。
まあ、僕的には、見事な最期を飾れたので、朝本のやっちまったそんなトラブルなんて、なんて事無かったのですが、彼はやっぱり気まずかったのかな……。
彼とはAUTO-MOD解散以降、殆ど会う事も無く、長い年月が過ぎてしまいました。
しかし、却って、そんな別れ方のせいか、余計彼の活躍を耳にすると、あの朝本も頑張ってるなと嬉しく思っておりました。
特にUAのプロデュースは、嬉かったな!!
何せUAは、僕の好きなアーティストでしたからね(笑)!!
しかし、それから30年、そんな彼との再会がまさか死を目前とした彼との出会いとなるとは、思っても居ませんでしたよ……。
やはり、彼の今回の事故は、ショックでした。
彼の事故をネットで知り、一人ず っと心配して居りました。
朝本君は、この2年間、ずっと意識不明の状態との事。
今年の11月に入り、奥様からメッセージを頂き、かなり容態が悪いと聞き、当時のメンバーだった貢と友森に連絡。
奇しくも友森は、丁度朝本君が在籍していたMUTE BEATのドラマーだった 屋敷豪太氏と、藤井フミヤ氏のツアー中で来れないとの事。
其れで、貢と二人で、川崎の病院に伺いました。
意識不明と言うので、呼吸器を付けた昏睡状態とばかり思っておりましたが、実際の朝本君は、呼吸器も付けず、目を開き、点滴だけは身体に入っているものの、とても2年間、意識不明の状態である姿ではありませんでした。
とは言うもの、30年以上ぶりに会う彼の姿は、僕の知る朝本君の姿では無かったですね。
そのあまりの変わり様に、僕も貢も、只々言葉を失うだけでした。
遠き昔、一緒にステージに立ち、一緒にツアーを回った仲間が、今死に瀕し、ベッドに横たわっている。
未だ未だ、死ぬには早すぎ、しかも音楽の神に愛され、その仕事も順調で、数少ない音楽で喰って行ける選ばれし者であった奴が……。
そんな彼が今、何も言えず横たわっている。
全ての言葉が。全く意味を持たなく成ってしまった様な時間を感じましたね。
言葉に詰まったまま、立ち竦む身体を無理矢理動かし、言葉をかける事に。
『朝本、元気か?』
『大丈夫か?』
其れが、精一杯の第一声でした。
自分の口から出た言葉が、なんとも間抜けに感じてしまい、もう少し何か言葉がないものかと、幾分情けなくなりました。
そんな、薄っぺらな一方的な問いかけに過ぎない僕の言葉に、彼は、起きていたかと思うと、眠り込んだり、そして又起きて……。
そんな状態を二、三分の間に数度繰り返し、そして彼は、30年振りの僕達の訪れを迎えてくれました。
その、受け入れ難い空気に、知らぬまに、頬に涙が流れるのを禁じえませんでしたよ。
『朝本、ジュネだよ、分かる?』
『一緒にパンクロックしたじゃん』
『AUTO-MOD覚えてる?』
『後楽園ホールの解散コンサート覚えてる?』
そんな、問いかけに、彼は確かに反応したんです。
優しそうな表情で、大きく目を開き、嬉しそうな笑みを浮かべた様な気がしました。
『確かに、反応したね……。』貢も、そう言っていました。
意識あるんじゃない、朝本生きれるんじゃない、そう思うと、「早く元気になれよ」、「又一緒にバンドやろうよ!!」と、言葉が次々と出て行きましたが、その後又、彼の表情は虚ろになり、眠ってしまいました。
その後彼は疲れたのか、深く眠り混んでしまいました。
『朝本、また来るからな……』
『朝本頑張れよ!!』
そう言うと、僕達二人は、病室を後にしました。
もう、言葉は何も出ません……。
重い空気に押し潰されそうでした。
二人とも分かってたんです、此れが最期の別れになる事を……。
もっと早く会っとけば良かった、AUTO-MODの結成30周年の時、彼に声を掛けておけば良かった、後悔は増すばかりです……。
誰にでも訪れる死の存在、しかしそれを感じる時は、いつも辛過ぎるものです。
其れから二週間後、彼は亡くなられました。
朝本浩文53歳、ミュージシャン、プロデューサー、九州男児、元AUTO-MODのメンバー。
2年に渡る闘病生活の後の、早過ぎた、永遠の眠りでありました。
12月3日朝本君の死後3日後の深夜、東京ダークキャッスルのMARZでの最期のライブがありました。
この日は渡邊貢も来てくれて、ライブ前に、楽屋に居た全員で、朝本君に献杯をしてステージへと上がりました。
貢が中々良い事を言って激を飛ばしてくれました。
『生き残った人間は、絶対やり残してはいけない、全力で力を出し切る様に!!』
そんな言葉で、上がったステージは、午前四時をすっかりまわってました。
この日は、新宿MARZで10年間続けて来た東京ダークキャッスルの聖地新宿MARZでの最期ステージ。
そしてそんな新宿MARZでの東京ダークキャッスル最後のステージで演奏された曲は、我々AUTO-MODの代表曲レクイエム。
そして、そんな最期の曲レクイエムを朝本に捧げ、東京ダークキャッスルは、新宿MARZに幕を降ろしました。
確かにこの曲は、何度と無く、偉大なる魂の為に捧げて来ましたかが、我がバンドAUTO-MODのメンバーに捧げるのは初めてのことでした。
半年前には、やはりこの曲を一緒に演奏してくれたソフトバレーの森岡賢君を失いこの曲を捧げました。
その半年後に、同じキーボーディストの朝本君に捧げる事になるとは……。
レクイエ、鎮魂歌と言う名前の曲を代表曲として、30年以上演奏して来た事を呪うべきか……。
兎に角僕達は、又大事な友人を失いました。
だんだん僕たちも、そちらの世界に近づいていると言うことなんでしょうね。 まあ、年齢関係無しに、僕達にどんな死がいつ、何時訪れるかも知れないし……。
今回の朝本君の見舞いに行った帰りに、『やっぱり生きてるうちに、やることやっとかなきゃ、駄目だよね』って、貢が散々言ってたんですが、決して他人事じゃ無くて、本当に死と言う物は、リアルな現実として、僕らの前に、しかも肌に感じられる距離に存在してるんです。
僕も近いうちにあちらの世界に行くことになるでしょう、しかしあちらの世界に行く前にやり残したことがないようにきっちり、方をつけとかないとだめですね。
朝本君の無念の分も含め、残された僕らがやる事、早急に動かなくてはなりません。
2016年の年の瀬に偉大なる友人を亡くし、僕は、かなりセンチになっております。
そんな訳で、丁度本日、我AUTO-MODのメンバーであり、日本のミュージックシーンに多大な貢献をした偉大なミュージシャン、朝本浩文氏が亡くなられて、丁度1カ月が過ぎました。
2016年の終わりに語る話題が彼への追悼文となってしまった事に、悲しみを覚えつつ、彼の死に慎んで、お悔やみを申し上げると共に、此処に心から追悼の意を表したいと思います。
朝本君、長く辛い闘い、お疲れ様でした。
これからは、何も心配せずに、安らかにおやすみ下さい。
そして天国の彼方で、最高のミュージシャン達と、最高な音楽を奏でて下さい。
合掌
2016. 12、30 AUTO-MOD代表 ジュネ
朝本浩文君が亡くなって、丁度一月になります。
クリスマスも終わり、街は、年の瀬の忙しさに追われ、忙しない空気に包まれていましたが、流石に今日は、東京は静かになって来ましたね。
そして、僕も何だかんだと、忙しさが続き、ブログも書けない日々が続いていましたが、今日はどうしても書きたい事があり、久しぶりにブログをアップさせて頂きます。
2016年も、あと2日。
今年は、僕にとって色々ありましたが、特に感じたのは、人の死がやけに重くのしかかって来た事でしたね。
この二、三年、本当に身近な人の死が続いています。
そんな連鎖に繋がる様に、僕のカミさんも死と隣り合わせの人生を送る様になり、その死の意味は更に増していき、ある意味僕の生活のベーシックな部分を握るファクターとさえ成ってしまいました。
まあ、そんな死にいつも明るく接しているカミさんには、どうしても頭が上がらないんですがね……。
やっぱり女は強いです。
生きる気満々デス(笑)!!
ですからこそ、死と言う言葉もすんなり日常と言う言葉になって行ったんだとも思えます。
そんな日常と共に僕が子供の頃から憧れたロックスター達が、次々に死んで行く……。
スターの死、これは、やっぱり、非日常の部類なんでしょうね……。
でも、 これも、やっぱり今年の悲しき出来事の1つでしたね。
日常も非日常も、全てが死を提示してくる。
単に歳をとっただけ、時の流れがそうさせてるんだと、其れが当たり前の事として捉える見方もあるでしょうが、そんな当たり前の事でも、やはりその寂しさは、測り知れぬものがありました。
そして、その死の曳航に連なる流れは、確実に僕も引きづられて行くのを感じます。
そんな日常を送る中、今年も家族三人揃って普通にクリスマスが出来ました。
普通……、良い言葉です。
いつ迄続くか分からないこの家族三人の繋がりを噛みしめ、今年のワインも神の雫の如く、心を潤す物と成ってくれました。
丁度2年前、カミさんの死を覚悟して迎えようとしていたクリスマス、しかし、奇跡的に薬が効き、延命状態に入り、病院のベッドの上ででしたが、生を持つ者として迎える事が出来たクリスマス、其れから2年間、退院しての家族三人の暮らしに戻った僕達家族の前には、幾つか危ないハードルが立ち塞がる事もありましたが、なんとか其れを超えて来れました、そして、その度に、神への感謝を抱き、家族の絆に感謝し続ける事が出来、正に我が家族は、幸運だったとしか言う言葉が見つかりません。
特に殆ど同じ時期に、僕のカミさんと同じ様に死の淵に追いやられ、しかしそのまま意識を失い、2年の月日をベッドの上で過ごし、終にこちらに戻る事無く逝ってしまった彼の事を思うと、その死に対する思いは、つら過ぎるモノがあります。
方や根治する事は叶わぬ迄も、未だ生を享受し続けている、そして一方彼は死んでしまった……。
そんな彼の死が過ぎて、丁度一月が過ぎました。
前置きが、長く成りましたが、暫くぶりのブログは、そんな彼への話しをさせて貰います。
彼の名は朝本浩文、30年以上前に、AUTO-MODのメンバーだった男です。
そんな朝本浩文氏が、亡くなられたのは一月前、11月30日、14時55分の事でした。
丁度彼の53回目の誕生日を迎えたばかりの事でした。
そして、其れは僕とパーソンズの渡邊貢の二人が最後のお別れに行った約二週間後の事でした。 ネットニュースなどでご存知の方も多いと思われますが、朝本君は、2014年9月11日夜、自宅近くを自転車で走行中に転倒、頭部を強打し、以来意識不明の状態が続いていることが報じられていました。
タクシーが関わっている疑いもあったのですが、確かな証拠がなく、自らの転倒とされ、2年2カ月の闘いの後の無念の永眠でありました。
そした、彼は歴代AUTO-MODメンバーの中で、一番最初に天国の階段を上って行った男と成りました。
朝本浩文、彼と最初に会ったのは、AUTO-MODから布袋君と高橋まこっちゃんが抜け、メジャーデビューアルバム『デストピア』が発売されようとする1985年を迎える前年の晩秋の事だったと記憶しています。
一定期間の凝縮した活動の後、華々しく散って見せると言う花火の様なコンセプトの元、AUTO-MODは1983年12月にその第一歩としてシリーズギグ「時の葬列・終末の予感」を開始しました。
おこのシリーズギグの13回目に、解散と言う絵図を描き、正に、インディーズから、メジャーへ、ライブハウスから、ホールクラスへと、移行しょうとしている時でした。
残された僕と、現パーソンズのベーシスト渡邊貢、又後に矢沢永吉のステージを務め、ブランキージェットシティのレコーディングにも関わった、サックスの河野利昭の三人で、新しいメンバーを探す中で、ドラムは浜一輝に、ギターは、後のレベッカに参加、その後、氷室京介、藤井フミヤなどのバックで知られる事ともなる友森昭一に決定、新たなるスタートを切る事と成りました。
しかし、やはりサウンド的に布袋君の抜けた穴は大きく、その穴を埋める戦力強化要員として、キーボードを入れる事となり、白羽の矢がたったのが、朝本君でした。
確か、ドラマーのハマちゃんが連れて来たんだったな……。
九州出身ってんで、明太ビート系のバリバリパンクな子が来るのかと思ったら、やって来たのは、おっとりとした風貌の、お洒落な田舎者って感じの慶応ボーイでした(笑)。
それが朝本君との初めての出会いでした。
そんなキーボード朝本浩文と、ギター友森昭一、ドラム浜一輝、、サックス河野利昭、ベース渡邊貢、そして僕のジュネの五人で第1期AUTO-MODの最後の航海を共にする仲間が決まって行きました。 そしてこの五人で、ファイナルの解散ライブに向かい、最後のAUTO-MODの旅を初めました。
この五人で、北海道から九州迄色々回りました。
この時は、AUTO-MODは、人気の絶頂期でしたね……(笑)!!
九州に行った時は、朝本のお母さんに、息子の事を宜しく頼むと託されましたよ(笑)。
布袋君と離れたAUTO-MODは、よりマニアックな方向に走りながら、メジャーに於いて二枚目のアルバム『イースタニア』を制作。
その頃のAUTO-MODは、エスニック色を強め、かなり実験的音作りをしていました。
このメジャー二枚目のアルバムとなる『イースタニア』は、実は、名前こそ出して居ませんでしたが、EP-4の佐藤薫氏がプロデュースに参加してくれていて、薫さんのつてで、天才キーボードプレイヤーの川島バナナ氏や、キリング・タイムのタブラ奏者Ma*To氏も参加。
その技術力の高さに、インディーズミュージシャンであった僕達は、目を見張ったものでした。
朝本君も川島バナナ氏のその天才的センスを目の当たりにし、かなりの衝撃を受けていたと思います。
後々朝本君が、ワールドミュージック的活動をしていたと聞いて、あながち、彼にとってのAUTO-MODと言うキャリアも、あの時だけの物じゃなかったんだな、何て思ったりもしたものでした。
そんな彼は、AUTO-MOD解散後は、サポートメンバーとしてTHE MODS、THE ROOSTERS、GO-BANG'S等にも関わるなど、多彩な活動を展開。
1986年又バンドメンバーとしては、日本のダブミュージックバンドとして、世界的に知られたMUTE BEAT"にキーボーディストとして参加。
あのMUTE BEATに朝本が入ったと聞いた時は、本当にあいつで大丈夫なのかと思ったりもしましたが、彼はその後その活動の中で成長して、日本のミュージックシーンに名を残すアーティストと成って行きました。
AUTO-MOD出身者って、なんか、みんな凄いんですよ(笑)。
その後、朝本君は、MUTE BEATを脱退、Ram Jam Worldを結成。
又UAを始めとして数々のアーティストの作品を手掛け、プロデューサーとしての地位も確立。
マジその活躍は、凄いものでした。 UAのプロデュースと聞いた時は、マジスゲ〜と、声を上げてしまいましたよ(笑)!!
そういや、そんな朝本君のAUTO-MOD時代のやっちまったエピソードも、しっかりありましたね……(笑)。
後楽園ホールでのAUTO-MODの解散コンサートを目前に控えた大事なリハーサルをすっぽかしやがったんですよ(笑)。
その頃のAUTO-MODのメンバーは、僕の意思を理解し、僕の楽曲を演奏出来る技術とセンスを持つミュージシャンとによる、僕のワークショップ集団と成って居て、それさえ出来れば、後はかなり自由な行動が約束されてました。
ですので、AUTO-MODのメンバーが他のバンドやミュージシャンと仕事をする事も、むしろ積極的に許可していました。
勿論AUTO-MODの活動に支障をきたさないと言うのが、大前提ですけどね。
その頃のAUTO-MODは、ロックシーンでは、知名度もかなりの物に成っていたので、AUTO-MODのメンバーと言えば、結構仕事が入って来ていたようです(笑)。
そんな朝本君がAUTO-MODの解散コンサートを目前ととした頃、モッズのサポートをする事に成ったのも、そんなAUTO-MODの知名度と、解放的バンドの在り方が在ったからの事でした。
しかし、解散コンサートを1つの目標とし、その為に全精力を注いで居たAUTO-MODにとって、解散が近づいた一月位前から、殆どのメンバーのテンションは、解散コンサートに向かって居ました。
まあ、AUTO-MODにとっては、2年越しの大プロジェクトでしたからね。
ただ一人、モッズの仕事まする様になった、朝本君を除いてでしたが……(笑)。
何せ、福岡出身の朝本君にとっては、モッズは神様も同然、その神様から仕事が来たとなると、若い朝本君が、浮かれ過ぎても、当然の事だったのでしよう(笑)。
度々リハーサルに穴を開ける様になり、彼と他のメンバーとの距離も段々離れ気味に成って来て、僕としては、先輩であるモッズの森山さんの為ならと、黙認し、却って擁護していたんですが、流石に解散一週間前のリハーサルをすっぽかしだしたのには切れて、朝本を呼び出し、森山さんに話しをすると詰め寄った事も有りました。
結局朝本のリハーサルは必ずでると言う言葉と、謝罪で許してやったんですが、確か、その後もう一度すっぽかしたんじゃなかったかな……(苦笑)。
しかし、これは、僕よりマネージャーであり、バンドのプロデューサーでもあった、宮部知彦氏が、激怒し、解散コンサートのライブレコーディングから、朝本の音を全て消すなんて無茶苦茶な事を言い出し、なだめるのが大変だったなんて、後日談があったんですが、今やこの裏話知ってる奴は、誰も居なくなりました……(笑)。
とは言うもの、なんだかんだで、バタバタでしたが、後楽園ホール超満員、ソールドアウトで、有終の美を飾ったAUTO-MODでありました。
僕達のパンク ニューウェーヴが終わった瞬間でした。
まあ、僕的には、見事な最期を飾れたので、朝本のやっちまったそんなトラブルなんて、なんて事無かったのですが、彼はやっぱり気まずかったのかな……。
彼とはAUTO-MOD解散以降、殆ど会う事も無く、長い年月が過ぎてしまいました。
しかし、却って、そんな別れ方のせいか、余計彼の活躍を耳にすると、あの朝本も頑張ってるなと嬉しく思っておりました。
特にUAのプロデュースは、嬉かったな!!
何せUAは、僕の好きなアーティストでしたからね(笑)!!
しかし、それから30年、そんな彼との再会がまさか死を目前とした彼との出会いとなるとは、思っても居ませんでしたよ……。
やはり、彼の今回の事故は、ショックでした。
彼の事故をネットで知り、一人ず っと心配して居りました。
朝本君は、この2年間、ずっと意識不明の状態との事。
今年の11月に入り、奥様からメッセージを頂き、かなり容態が悪いと聞き、当時のメンバーだった貢と友森に連絡。
奇しくも友森は、丁度朝本君が在籍していたMUTE BEATのドラマーだった 屋敷豪太氏と、藤井フミヤ氏のツアー中で来れないとの事。
其れで、貢と二人で、川崎の病院に伺いました。
意識不明と言うので、呼吸器を付けた昏睡状態とばかり思っておりましたが、実際の朝本君は、呼吸器も付けず、目を開き、点滴だけは身体に入っているものの、とても2年間、意識不明の状態である姿ではありませんでした。
とは言うもの、30年以上ぶりに会う彼の姿は、僕の知る朝本君の姿では無かったですね。
そのあまりの変わり様に、僕も貢も、只々言葉を失うだけでした。
遠き昔、一緒にステージに立ち、一緒にツアーを回った仲間が、今死に瀕し、ベッドに横たわっている。
未だ未だ、死ぬには早すぎ、しかも音楽の神に愛され、その仕事も順調で、数少ない音楽で喰って行ける選ばれし者であった奴が……。
そんな彼が今、何も言えず横たわっている。
全ての言葉が。全く意味を持たなく成ってしまった様な時間を感じましたね。
言葉に詰まったまま、立ち竦む身体を無理矢理動かし、言葉をかける事に。
『朝本、元気か?』
『大丈夫か?』
其れが、精一杯の第一声でした。
自分の口から出た言葉が、なんとも間抜けに感じてしまい、もう少し何か言葉がないものかと、幾分情けなくなりました。
そんな、薄っぺらな一方的な問いかけに過ぎない僕の言葉に、彼は、起きていたかと思うと、眠り込んだり、そして又起きて……。
そんな状態を二、三分の間に数度繰り返し、そして彼は、30年振りの僕達の訪れを迎えてくれました。
その、受け入れ難い空気に、知らぬまに、頬に涙が流れるのを禁じえませんでしたよ。
『朝本、ジュネだよ、分かる?』
『一緒にパンクロックしたじゃん』
『AUTO-MOD覚えてる?』
『後楽園ホールの解散コンサート覚えてる?』
そんな、問いかけに、彼は確かに反応したんです。
優しそうな表情で、大きく目を開き、嬉しそうな笑みを浮かべた様な気がしました。
『確かに、反応したね……。』貢も、そう言っていました。
意識あるんじゃない、朝本生きれるんじゃない、そう思うと、「早く元気になれよ」、「又一緒にバンドやろうよ!!」と、言葉が次々と出て行きましたが、その後又、彼の表情は虚ろになり、眠ってしまいました。
その後彼は疲れたのか、深く眠り混んでしまいました。
『朝本、また来るからな……』
『朝本頑張れよ!!』
そう言うと、僕達二人は、病室を後にしました。
もう、言葉は何も出ません……。
重い空気に押し潰されそうでした。
二人とも分かってたんです、此れが最期の別れになる事を……。
もっと早く会っとけば良かった、AUTO-MODの結成30周年の時、彼に声を掛けておけば良かった、後悔は増すばかりです……。
誰にでも訪れる死の存在、しかしそれを感じる時は、いつも辛過ぎるものです。
其れから二週間後、彼は亡くなられました。
朝本浩文53歳、ミュージシャン、プロデューサー、九州男児、元AUTO-MODのメンバー。
2年に渡る闘病生活の後の、早過ぎた、永遠の眠りでありました。
12月3日朝本君の死後3日後の深夜、東京ダークキャッスルのMARZでの最期のライブがありました。
この日は渡邊貢も来てくれて、ライブ前に、楽屋に居た全員で、朝本君に献杯をしてステージへと上がりました。
貢が中々良い事を言って激を飛ばしてくれました。
『生き残った人間は、絶対やり残してはいけない、全力で力を出し切る様に!!』
そんな言葉で、上がったステージは、午前四時をすっかりまわってました。
この日は、新宿MARZで10年間続けて来た東京ダークキャッスルの聖地新宿MARZでの最期ステージ。
そしてそんな新宿MARZでの東京ダークキャッスル最後のステージで演奏された曲は、我々AUTO-MODの代表曲レクイエム。
そして、そんな最期の曲レクイエムを朝本に捧げ、東京ダークキャッスルは、新宿MARZに幕を降ろしました。
確かにこの曲は、何度と無く、偉大なる魂の為に捧げて来ましたかが、我がバンドAUTO-MODのメンバーに捧げるのは初めてのことでした。
半年前には、やはりこの曲を一緒に演奏してくれたソフトバレーの森岡賢君を失いこの曲を捧げました。
その半年後に、同じキーボーディストの朝本君に捧げる事になるとは……。
レクイエ、鎮魂歌と言う名前の曲を代表曲として、30年以上演奏して来た事を呪うべきか……。
兎に角僕達は、又大事な友人を失いました。
だんだん僕たちも、そちらの世界に近づいていると言うことなんでしょうね。 まあ、年齢関係無しに、僕達にどんな死がいつ、何時訪れるかも知れないし……。
今回の朝本君の見舞いに行った帰りに、『やっぱり生きてるうちに、やることやっとかなきゃ、駄目だよね』って、貢が散々言ってたんですが、決して他人事じゃ無くて、本当に死と言う物は、リアルな現実として、僕らの前に、しかも肌に感じられる距離に存在してるんです。
僕も近いうちにあちらの世界に行くことになるでしょう、しかしあちらの世界に行く前にやり残したことがないようにきっちり、方をつけとかないとだめですね。
朝本君の無念の分も含め、残された僕らがやる事、早急に動かなくてはなりません。
2016年の年の瀬に偉大なる友人を亡くし、僕は、かなりセンチになっております。
そんな訳で、丁度本日、我AUTO-MODのメンバーであり、日本のミュージックシーンに多大な貢献をした偉大なミュージシャン、朝本浩文氏が亡くなられて、丁度1カ月が過ぎました。
2016年の終わりに語る話題が彼への追悼文となってしまった事に、悲しみを覚えつつ、彼の死に慎んで、お悔やみを申し上げると共に、此処に心から追悼の意を表したいと思います。
朝本君、長く辛い闘い、お疲れ様でした。
これからは、何も心配せずに、安らかにおやすみ下さい。
そして天国の彼方で、最高のミュージシャン達と、最高な音楽を奏でて下さい。
合掌
2016. 12、30 AUTO-MOD代表 ジュネ